苫小牧鳶土木工事業組合

鳶伝統文化

主なできごと

享保四年(1719) 大岡越前守四十二才。片仮名付「イロハ」四十八組と本所、深川十六組の町火消を組織する
享保七年(1722) 町火消、実力を認められ、武家屋敷の火掛りの許可を受ける
享保九年(1724) 近松門左衛門(浄瑠璃作詩)英一蝶(長唄作詩)逝去
享保十五年(1730) 越前守五十三才。町火消組替となる(番組制)同時に平仮名となり「纏」が出来る
享保年間
(1716~1735)
大薩摩、河東、薗一、節創始
元文元年(1736) 多くの文派を出した豊後節が幕府の忌諱で禁止。宮古路文字太夫、常盤津と改名
延享四年(1747) 町火消、初めて江戸城の消火に当る
寛延元年(1748) 常盤津から分離独立して、富本節創始する
明和、安永
(1764~1780)
富士松節別れた、鶴賀派や、新内節が最盛となる
文化、文政
(1804~1829)
端唄が最盛期となると共に、木遣りも最盛期となり、家斉将軍に聞す
鳶の姿は芝居の世話物に、また「纏持」の姿は見立絵となる

木遣り

木遣りの由来

「木遣り」とは、建築用材にする大木を運ぶとき、多勢が力を合わせて引っ張ることを言い「木曳」と同義語である。また石を引っ張るときを「石曳」、梵鐘を引くときは「鐘車」といわれ重量物を曳くものに応じて名称も違っていたが、後にこれらは建築用材を運搬する事を「木遣り」という名で総称するようになった。

  • 木遣り歌の形式と内容

    昔、現在のような建設機械が発達していないため、巨岩や大木など重量物を運ぶときに多くの人の力が必要とされていた。そこで、人間は一人の統括する指揮者によって、全体の力を集結する方法を見出した。その指揮者の号令によって重いものを運搬したのである。即ち、この号令の役目であったのが木遣り唄であると言われている。
    まず指揮者が「呼び声」で全員の士気を高め、他の引っ張る人たちがそれを受けて一斉に力を集結するもので、このような力仕事と密着した日本人独特の労働歌であった。
    その内容は、この指揮者の「呼び声」を「音頭」といい、引っ張る曳き子の合唱を「受け」と言って、お互いが声を掛け合いながら行う「掛け合い」の形式をとっているので「木遣り音頭」とも言われている。

  • 木遣り唄の起源

    「近代世辞談」によると、京に住む禅僧栄西が、隣国中国(宋)に留学した時に、寺院の建設を見開きした折り、作業をする多くの人夫が一人の発生で音頭を取りながら作業する様を見て、帰国後の1212年(建仁2年)京都に建仁寺を新築するときに応用したのが始まりとある。しかし、それ以前の古代から、人間は自分を守るための「住まい」を共同で作る風習があったと考えられ、その頃からこのような一種の木遣り唄が存在していたと言われている。ただし、それが一層盛んになって当時の人々の耳に入り、記録にも現れるようになったのは、戦国時代以降、人間が権力を持ち始めたころに、諸国で大きな城や神社・仏閣が造営されるようになってからと推察される。

  • 木遣り唄の移り変わり

    初めは、純粋に重く大きな岩石、大木をはこぶときに音頭をとるための手段として唄われてきた。しかしおおきな城や神社・仏閣などが造営されるようになってからは、建築そのものが慶事的なものと一般的に考えられるようになったため、木遣り唄もめでたい唄として仕事から離れて唄われるようになった。
    江戸時代に入ってからは、三味線唄ともなり、特に元禄期に入ってからは、元禄16年(1703年)「松の葉」(佐山検校)の長唄きやりは、一般庶民の唄い物となり、現在でも貴重な文化財として残っている。また、この頃から火消し、鳶の類が土木関係の職にあったことから、木遣り唄は彼らの本芸となり、氏神祭礼のときに、鉾・山車を曳きながら、木遣り唄を歌うことが大きな目的になり、「清元」「常盤津」「富本節」や「歌舞伎」など大衆に広まっており、鳶職に伝わる木遣りは棟木だけを巻き上げる上棟式や橋の渡り初め、記念碑の除幕式などの慶事や葬儀にも歌われるようになってきた。

  • 江戸時代以降の木遣り

    現代に継承されている木遣りは「三味線歌曲」と「歌舞伎踊」と鳶木遣りに分けられているようだが、江戸の木遣りを記した物として、浅草の「浅草寺」の戦勝記念塔の碑文に(現在は残っていない)「慶長11年丙午武蔵国江戸城を創築し、経営せられるや庶民・〇集・永久萬歳を領せざるなし、喜大・弥六両人なるものあり、歌を作て述べ、衆口相和す、陣煽及び筋を褒賜せらる是を木遣り音頭の努めなす、其の後諸候伯、築城及び大廈を終始する事ある毎に皆此の曲調を用いざるなしに記念燈台を設くるに了其の原曲を記す」とある。
    このように各地に伝承されている木遣りは上記に記録されていることから江戸の木遣りが伝えたものと考えられ、現在に伝わっている木遣りからも、そのことが認識できる。

  • 現代の木遣り

    現在唄われている木遣りの調子は、江戸の大間に対し、地方の中間に大別されると考えられる。それは現代に近い時代に基礎固めの作業が行われていた頃の江戸時代に代表される「棚作業」と横浜に代表される「やぐら作業」によって分けられたと考えられる。

纏の由来

群雄割拠の戦国時代に戦場で敵味方の目印として用いたもので、的率(まとい)あるいは馬印(うまじるし)と称していた。江戸時代に入り太平の世が続くと武家の的率は使われなくなりこれに代わって火消しが火災現場で用いられる標具となった。この纏を初めて使ったのは大名火消しだといわれているが、常火消しの消防屯所では、玄関敷き台の右脇に定紋をつけた銀箔地の纏を飾り、厳めいし家事装束に身を固めた侍たちが待機していたそうだ。
この纏が火消しにとってどれほど重要なものであったかは、天下に名高い加賀鳶の喧嘩の様子によって知ることができる。

  • 加賀鳶の喧嘩

    享保3年(1718年)12月3日、本郷の杉浦屋敷から火が出ましたが、加賀鳶の一番手がさっそく駆けつけて、これを消し止め、消し口の屋根に纏を立てました。そこに新手の定火消、仙石勢が駆け上るや、加賀鳶の纏持ち以下を屋根から転げ落とし、自分の纏を立ててしまったのです。落ちた拍子にまといが折れたことが加賀鳶の怒りを一層かりたて、彼らは大暴れに暴れて仙石の纏を追い落としてしまいました。そのついでに、仙石方の臥煙(がえん)を一人殺してしまったことから騒ぎはますます大きくなり、両家だけの話し合いでは収まらず、老中を通じ将軍吉宗の耳にまで達してしまいました。吉宗が名奉行大岡越前守忠相に事件を調査させた結果、仙石側の横車が事の起こりであることが判明し、仙石は厳しいお叱りを受けました。

  • 町火消しの纏

    町火消しが誕生してまもなくの享保5年(1720年)4月、大岡越前守は町火消しにも纏を持たせ士気の高揚を図った。この頃の纏はまといのぼりといわれた幟形式のもので、馬簾(ばれん 纏にたれ下げた細長い飾りで48本ある)ではなく、火災出場区域や火災現場心得などが書かれていた。纏はいろは48本に本所・深川の16本を合わせて64本あった。
    今日見られるような形の纏になったのは、享保15年(1730年)のことで当時纏の馬簾には、今日のような黒線は入っていなかった。(ただし、一般の町火消しと区別するため、上野寛永寺に火事が起こった際駆けつける「わ組」と「る組」の馬簾には1本、湯島聖堂に駆けつける「か組」の馬簾には二本の黒線が入っていた。)
    纏の識別部を陀志(だし)と呼ぶ。これらはそれぞれの組の土地に縁のあるものや、大名の紋所などをデザイン化したものが多く、「い組」に例を取ると、芥子(けし)の実に枡を型取ったものであることから、芥子枡(消します)の纏と呼ばれている。この名は大岡越前守がつけたという説もある。
    すべての纏の馬簾に黒線が入れられるようになったのは、明治5年(1872年)に町火消しが消防組と改称されたときからで、受け持ち地域を一定の区域に区切って線を入れていた。当時は1本から6本までの黒線であった。

  • 纏の振り方のこつ

    纏の重量が現在のものは軽く作られている。纏は「振る」のであって、「振られてはならない」ことが鉄則である。大名行列の「双子振り」とは違って番組の心意気を全身に感じて、馬簾が舞うように振り切ることが理想とされている。振り方は、前のめりにならず、身体の重心が常に一定になるよう、一般的には「かえる股」で振るのが正しいとされている。
    纏の振り方は、1種類ではない。グループごとに決められた型で振っているのが現状であるが、基本技を十分に踏まえたものであれば、個性や多少の違いは良しとされている。

梯子乗り

はしご乗りの由来

本来は、仕事をするための準備運動として、鳶職がはしごに乗った。はしご乗りを初めて実施したのは江戸に住んでいた「加賀鳶」である。加賀藩は、前田藩に属し、本郷の加賀屋敷(現在の東京大学)に仕え、屋敷内の火消しを兼ねた役職に従事し、参勤交代のときは共をした。
当時、出火の知らせを聞いた加賀鳶は上野池の端付近の現場までやって来たが、火の手が見えないので持ってきた梯子を立てて火の見やぐらの代用をし、梯子の上まで上って火事の確認につとめた。しかし、火の手が見えないので「出火は誤りであります」と報告したら、「もう一度確かめろ」といわれ、梯子灰吹き(梯子の上端)までのぼり、足を竹に支えて右手を目の位置におき、あたかも高みの見物でもしているような格好をした。これが後の「遠見」という技に変化したといわれている。

  • 初出の由来

    万治2年1月4日(1659年)上野東照宮前で行われたのが初めてといわれている。これは、町火消しではなかったようだ。その後、はしご乗りや刺叉乗り等を催物としてやるようになったのが、普段高所で仕事をする身軽さを生かし、鳶職人が火事場で働くときの技を競うもので、現在でも纏の振込みや木遣りと共に、消防庁出初式・浅草観音堂内消防殉職慰霊祭や内外人に日本の風俗行事紹介に貢献している。

鳶職

鳶職とは、一般的に建設業で、高い所での作業を専門とする職人を指す。町場では地業も行う基礎工事、簡単な間知石積など、またこれらのことから「鳶、土工」と一括りで呼ばれる。
作業の種類や職業などによって「足場鳶」「重量鳶」「鉄骨鳶」などに分けられることがある。建築現場の職人の間では、高所を華麗に動き回る事から「現場の華」とも称される。

  • 由来と役割

    棟上の時、梁から梁へ文字通り飛んだので鳶といわれる。道具として代表的なものが鳶口であり、このことからも町火消(延焼家屋を曳き倒すときに使う)、梯子乗り(梯子を支えるのに使う)木遣り(木をやりまわすのに必要)とは不可欠であると言える。また、この鳶口から鳶職といわれる。
    古くから日本各地では相互扶助の単位として町あるいは町場という共同体があり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の庶民のまつりごと(自治、祭礼)は伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。こうした自治の場で町鳶は冠婚葬祭の互助活動等や消火活動(火消し)、祭礼、橋・井戸の屋根つるべや上下水道の枡等の作成を町大工と協力して担ってきた。普請においてその町に住む物は、その土地の鳶職を使うのが不文律ありそれをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。この様なことは鳶職に限ったことではなく、町の中の商店や職人を積極的に贔屓にするが、不文律の拘束は弱く、町鳶、町大工、町火消しなど「町」を冠する職方には我々の町の、という誇りを込めたニュアンスがある。

  • 鳶と火消し

    江戸時代の消火は延焼方向の家屋を解体して延焼を防止する破壊消防だったため、民間人のボランティアにより構成される町火消しでは、本来が建築労働者で家屋構造を熟知し、かつ掛矢や鳶口などの道具の扱いに習熟して素早い家屋解体が可能だった鳶の者が火消衆の主力を占めた。以後火消は鳶と同義になり、歌舞伎など江戸文化の題材とされ、鳶の間に独自の火消し文化が発達した。現在でも出初式では鳶関係者により梯子乗りの演技などが行われる。

  • 分 類

    1.足場鳶
    建築現場で必要な足場を設置する職人。単に高所作業を行うだけでなく、設置場所の状態や作業性、足場解体時の効率など、その場に応じて的確に判断して組み立てることが求められる。会社組織として、仮設足場のレンタル・据付・解体を一体となって請け負っている場合が多い。

    2.鉄骨鳶
    鉄骨構造の建築物において、鉄工所、FABなどで製作された柱や梁になる鋼材をクレーンなどで吊り上げて組み立てる(建て方・建て込みとも呼ばれる)鳶。

    3.重量鳶
    土木では橋梁の現場で主桁架設を行う。また建物内部の重量物(大型機械な ど)の据付(設置)を行うのも重量鳶である。足場・鉄骨鳶に比べて専門性が 高く、プラント・空調給排水設備・電気設備工事の一部を重量鳶が仕事する場合も多い。

    4.基礎工事業
    主に町場の住宅の基礎工事を専門とする。町鳶から分業または兼業。基礎工事の準備段階として木杭と貫でベンチマークとなる囲いを作るこれを「遣り方」といい、鳶職の別名になっている。また、「やり方」の語源とも言われる。

    5.曳き屋業
    建築物を基礎から分離し上物は解体、分解せずそのままの形で移動、移設する職業。歴史的に古く鳶職の職能の一部だったが、最近は高度に工業化されたコンピューター制御のジャッキアップシステムを駆使する専門業者も多い。

    6.解体業
    建築物の解体を行う職業(煙突解体業という専門職もある)。足場架構も必須である。鳶職から分業または兼業。また町火消の消火活動自体が、延焼家屋やその周辺の家屋を素早く曳き倒し(解体、壊す)防火帯を作るという荒っぽい作業であったが、その緊急時、危険な場所での技術が解体業の礎になったことは否めない。